2021/01/23

<社会主義所有制相対性論>について

 

 中国に行った際に普通の農民と接しているときに感じることだが、自分たちが政治制度上は社会主義といわれる国に住んでいることをどれくらい自覚し、本来の社会主義なるものをどれくらい理解しているのかとなると、ほとんど乏しい。ほとんどの農民にとり、中国の社会主義制度は、実はあまり重要なものではなくなってきているのではあるまいか。

  尋ねると、きまって返ってくる「政府・党のおかげで生活もよくなった」という言葉は、まったく「オウム返し」そのもので、「外人に訊かれたらそう答えておくだけでよい」と教育されているかのようだ。

 筆者はまだチベット、新疆、海南省、広西、貴州省には行ったことがないので、解ったようなあまり大きなことはいえないが、少なくとも、残りの26か27の省・直轄市・自治区の農村で、農民に会った経験からすると、中国の農民は中国の都会人や富裕者層のひとたちが考えるほど無能でもなければモノ知らずでもない。

むしろ、生き方を心得た人間としても、農業人としても優秀な方であると思う。若い頃、中国以外の国、アメリカ、豪州、東南アジア、東西の欧州諸国や日本全国すべての都道府県の農村調査をした経験からいうと、この点は、どこもほぼ同じである。

 生き方を心得ていると思うことは、となり近所との付き合い方、けっして豊かとはいえない生活水準のもとで、生きる喜びを最大にする術を知っているということだ。

農業人としても優秀、という点は、農業に素人な筆者や都会人ではとうてい知り得ないしできないことを身に付けており、それを理解し、日々、技術や技能を発見し更新し、それを全身に上書きする能力の持ち主なのである。

彼らが身に付けている農業技術や技能は、地主や貴族あるいは王族が農民に教え伝えてきたものではない。彼らは、何も知らないのだから教えようもない。みな、あるものは仲間から、あるものは自分の経験と努力からうまれ、改良してきたものだ。

 とくに近代になると、食料調達や分配の社会的安定が支配者にとっても不可欠になり、農業専門の技術研究、教育研修施設などが生まれてくるが、その受け皿たる農民に能力と自覚がなければ無意味なことである。

  中国農民の場合、何千年もの長い期間、農地を自分の所有物としたことがない。いまもそうである。いまではその正当化が、「科学的」というもっともらしい言説でもって、端的に言えば、社会主義なのだから当然だという、非常にざっくりの「思想」が根拠におかれている。

 では社会主義とは何かとなるが、生産手段の私的所有制度の廃止とその中央計画的運用、したがって搾取がない(公平な分配と同じことであるが階級制の止揚)、資源の適正配分、効率、公平な社会参加、自由、民主などがその要諦のはずである。言葉の使い方は教条主義的な論者とは異なるが、中身はそういうことである。

 では、実態はどうであろうか?

農業部門に限定して、いまの中国に照らして確認すると、そこには優れた点と問題点とが併存している。

 1、優れた点

(1)上述した農民自身の努力以外に、品種、基盤整備、栽培・飼養、収穫、保管などの新農業技術開発と普及に、資金、頭脳の国家的集中投資が行われ、多くの国際特許権を獲得しているほどだ。

 (2)灌漑整備や土地利用の大規模化が、国家もしくは地方政府主導により一気に可能。典型的には「基地」と呼ばれる大規模農業団地やビニールハウス農場が各地に誕生した。

その結果、農業参入を行う農外企業が増え、しかも数百、数千ヘクタールの農業経営企業を輩出した。

 (3)政府主導による改良品種の全国的普及、栽培・飼養技術の統一、政府買入価格の設定による農産物市場価格形成制度の一元化が可能になった。

 (4)農産物物流を担う車両の高速道路料金の無料化や軽減など、食料の統一的確保政策。この点は、新型コロナによる農産物物流の滞りや停止に対する強制的な排除やグリーンロードといわれる道路の迅速な確保にも応用された。

 

2、問題点

(1)現在の農地所有は制度的には(集体)集団経済所有制で、定義的には、農民の農地はそこからの借地である。

農地の所有制度なぜこうした制度になっているか、といえば土地は憲法で全人民所有制(公有、国有)とされているからで、なぜそうしたのかといえば、社会主義制度の国だからと、卵と鶏の順番争いのようになる。

 社会主義の指導者であり実権掌握者は党だから、実際は、農地を含む中国のすべての土地は見方を変えれば「党有」とも呼べる。つまり農民は、党から借地をしているともいえる。

 土地所有制度の呼び方はともかく、制度的には公有がよい、と考えた結果、いまのような制度になったわけであるが、人民公社時代に比べれば、いまの家庭請負生産制になって、確かに農業生産力は上がった。農民個々が、自由に農業ができるようになったためで、もし、農地所有が自分のものになれば、さらに意欲と工夫と努力が実り、生産力はこれまでにも増して高まることを示唆する。

 この意味するところは、農民には自由のない、ただ集団農場というだけの農地公有制―新中国ではその典型が人民公社だった―の優位性は一度も実証されたことがなく、むしろ否定されたということである。

 (2)家庭請負責任制という農地制度には、新たに登場してきた地方ボスが、農民から農地を奪い、身勝手な農地の使い方を許す問題を全国規模で起こしているという。形式的には請負農地の権利が別の農民や企業に移転していく過程で起きている問題だが、形式的土地取引の背後に隠れて実態は見えにくい。

 (3)大部分の農民は生活に苦しく、跡継ぎもいない。だから農地を売却したいが、自分が使っている農地には所有権がないのでそれができない。一方、大規模化を進めたい農民は資金の準備はできても、近在の農地が複雑な権利移動関係にあるのが普通で、農地を団地式に集めることができないし、集めた農地はすべて借地のままである。

 (4)農民が集団経済から借りている農地面積は狭く、単純平均で一農家当たり65アール。これでは一家を養うことは到底できない。さりとて豊富で労働条件に恵まれた兼業機会がそうあるわけではなく中途半端だ。そういう意味では、農地は生活を補っている。だからといって、農地制度がこのままでいいとはいえない。

 (5)借地でも安定した経営ができればまだいい。実態は、農地は公有であるという理由から、公共の利益という名目のもと、しばしば強制収用に遭う。しかも補償制度は弱く、補償は農民または農業企業ではなく、農地所有者すなわち集団経済に支払われる仕組みだ。農民はそこから、一定の補償金を受け取るのだが、農産物販売代金の3年間程度を受け取る程度である。まれに、収用された農地に建ったマンションの一室など物的補償を得る場合もあるようだが、農民には習慣がなく住めない。だから売却してしまうが、そのお金はなかなか身に付かないように聞く。

 (6)農民と農地を農村に縛るための戸籍制度(1958年)は農民を一般勤労者から切り離し、製造業やサービス業に正規に、つまり都会生まれの人と同じように従事することを許さない。許しても待遇や社会保障制度では差別を受ける。農地使用権(借地権)は農民でないと持てないので、逆に都市戸籍者には差別になる。

 以上、現在の農地制度の持つ優劣を事例的・断片的に紹介したが、劣位の部分をいかに是正していくのか?

 中国では、農地の所有制度について、批判を受けながらも私有化論が根強く存在する。もちろん農地の私有化だけで問題は片付かない。筆者の近著『中国土地私有化論の研究』でも、この点を論じている。これには、さまざまな反響といおうか批判といおうか、激励といおうか、さまざまなご意見やコメントをいただいているが、まことにありがたいことである。

 ところでいま、筆者が考えているのは<社会主義所有制相対性論>とでも命名しようかという研究課題である。ひとことで紹介すると、中国に関する限り、いまこの国は社会主義制度あるいは共産党支配の状態にあるのだが、それと所有制度は相対的であり、実質的には両者は無関係でよいのではないか、という見方である。

 現に、本来は社会主義と対立・矛盾するはずの市場経済は発展し息づいており中国発展の柱となっている。五カ年計画や毎年の中央一号文件は存在するが、そこにマルクス・レーニン主義に本来的な中央計画経済は存在しないといえるほど微弱だ。

 また、所有に関しても企業そのもの、個人の株式や預金など金融資産、マンションなどの不動産の一部、高級車など物的資産、企業や農民の建物や製造・生産設備、牛や豚など動産の私有化が進み、経済活動の根幹を支えている。資産の大衆所有化は徐々に進んでいる。

これら私有資産の隊列に土地が加わったところで、中国の体制に影響するところはまずないであろう。つまり政治の社会主義や共産党一党支配という実務的制度と所有制度は相対的なものであり、分離してよいと思うのである。社会主義イコール土地公有というのは、観念論に過ぎないともいえる。社会主義の国にも私有制度は成立しうる。

 見方を変えれば、中国の現在の体制はそれほどまでに柔軟で、我々が頭の中で想定してきた正統的な硬い社会主義などではなく、「中国の社会制度」である。これを「中国の特色ある社会主義」と呼ぶのも、もちろん自由である。

2021/01/09

中国米の味と今後の変化

  中国で食べるコメの味はお世辞にも、良いとは言えないと思うのは、日本人だけかもしれません。昔の日本米は日本晴れという品種に代表されるように、味より量、少しでも収量の高いコメが優れた品種とされてきました。

 ところがいまや、日本米はブランド勝負、つまりは味勝負の時代になりました。スーパーで売られているコメはほぼブランド米か、有名な優良品種だけとなりました。

 高いのは新潟県の南魚沼産の無洗米コシヒカリ、無洗米北海道産ななつぼし、山形産のつやひめ、岩手産ひとめぼれなどですが、私は新潟県の岩船産コシヒカリも相当なものだと思います。故郷の近くということもあるかもしれませんが、残念ながら、私の生まれ故郷の中条産はあまり有名ではありません。おいしさにかけては岩船産にも負けてはいないのですが。

 では中国のブランド米にはどんなものがあるでしょうか?

 河南省原陽米、吉林舒欄米、黒竜江省五常米、遼寧省柳林貢米、河南省原陽米、その他いくらでもあります。ただし、ブランド米を全国統一的に規格化し、消費者に対する威厳ある組織によるものではなく、かなり勝手で宣伝的な要素が強いブランド化ですので、公平といえるかどうかは疑問です。 

 もう一つ日本とはちがって、中国米独特の留意が必要な点があります。それは、中国ではコメと一口でいっても、ジャポニカ系(主に東北産の日本米と同系統の単粒種)とインディカ系(タイ米など長粒種)があり、それぞれにブランド化されている点です。消費量はほぼ同量ですが、インディカ産は主に中国の南方産です。輸入量が多いのもこの品種です。

 私は長粒種の香りとさらさら感もスキですが、やはり、ご飯といえば単粒種です。かなりおいしい品種、日本のコシヒカリ系の色つやがよく粘り感がありやや甘みのある品種もありますが、末端価格は1キロ12元~13元、一般米の二倍以上はします。

 ところが、味という点になりますと、日本人独特の好みを基準としますと、やはり、まだまだというところです。では、日本人の好みはガラケー並みかというとそうでもなく、日本で食べたコシヒカリの味は、中国人も、やはりおいしいと喜んでくれます。

 おそらく、中国でも日本のコメのような味を求める動きが急速に進むと思われます。ご飯におかずを乗せたりかけたりすると、コメの味はきえてしまいます。余談ですが、日本の丼物、たとえば牛丼、かき揚げ丼など、汁物が混ざった丼物に使われるコメは古米、古古米が多いと聞きます。コメの味よりも肉とか天ぷらとかの味の方が勝ってしまいますから。高級丼物、たとえばうな重などは、コメもおいしいですよね。なぜかというと、うな重とコメは味のハーモニーを奏でますので、片方がまずいと全体が台無しです。

 中国本来の料理に丼物は多分無いと思いますが、店物ですと、最近は日本風の丼飯は大流行です。習慣的に白いご飯の上におかずを乗せて、両方を混ぜながら香りを嗅ぎながら、箸で喉に送り込む食べ方もありますが・・・・・。

 おいしいコメの味嗜好が広がっていくと、コメのブランド化と価格の多層化は一層進み、おいしいコメを作る農家の所得が上がる日本のようになると、頑張った農家にとっては励みになるに違いありません。

 追伸:『無洗米』は日本の発明ですが、読んで字のごとく洗う面倒のないコメのことくらいはご存じでしょうが、その誕生秘話について、いずれお話ししましょう。


2020/12/07

農民力学とSDGs

  新潟下越地方の稲作農村生まれの私にとって、中国の農村で、気が付けば故郷の風情を探している自分がいることがしばしばです。意識してこまかく観察すればみな違うのですが、風情という感情を軸にすると、似ているところの方が多いように思います。

 

たとえば、一面がたんぼのあぜ道や大きなむらさき色したナスや赤いトマトがぶら下がった夏の日の村はずれの畑に立った時、そこは新潟の農村の風情と変わるところはほとんどありません。土の色、稲穂が揺れるときかすかに発てる葉のこすりあう音、堆肥をまいたと思われるやや萌えるような鼻をつくにおいなどは、小学生のころ通った通学路で毎日のように触れた感覚と同じです。

 

いまの中国の農村の風情にも、新潟平野と似たところがあって、農繁期ともなればトラクターやコンバインが広い農地を轟音を響かせて行く姿があります。

 

そんな風情が好きなこともあり、中国の農村行脚から離れることはできません。また、ときおり見かける農作業をしている農夫や農婦が腰をやや屈めるようにしている姿は、いまも新潟下越の農村で目にすることがしばしばです。そんな共通点もあるからかもしれません。

 

しかし残念なことに、その農村に行く機会がないままはや一年間が経ってしまいました。そこにはほぼ何も変わらない光景があるのでしょうが、農村のちょっとした食堂で食べる農家料理のことも、農家の暮らしも、一人暮らしのおじいちゃん農民の農業現場の様子も、ともかく中国へいかないことには見ることはできません。

                           

新潟というところに住むと、東京のようになることだけが発展で、土着的なことや伝統的なこと、田舎染みた風情やことば(たとえば方言)をさえ消すことが、あるべき姿という感覚があたりまえのようになりがちでした。

小学生のころ、教室や廊下で、先生の口から盛んに発せられた「標準語をしゃべりなさい」という空虚なことばは、いまでも耳についています。そんなことができるわけがありませんでしたし、当の先生が方言を話していました。

たぶん、これと似たことは中国の農村の学校でも起きているのでしょう。

そうしていながら、新潟の農村も中国の農村もやはり少しずつ、巧みに、たくましく変化し発展していることも見逃さないようにしたいと思っています。内面から変わっていく農民の力学の存在が農村の歴史にもなってきました。そうでなければ、農業という職業も農民という社会的存在も、とうの昔に消えていたにちがいありません。

この力学の持続的発展を守るにはどうすべきかを考えてきましたし、これからもそうしたいと思います。これが私個人にとってのSDGs論でもあります。

2020/09/19

『中国農村土地私有化論の研究』 という本を出版します・・・・

 国家統計局によると、今年9月上旬の前年同期比の農産物卸売市場価格はコメ、小麦、トウモロコシ、大豆、落花生とも大幅に上昇したということです。

 コメ4.5%、小麦5.8%、トウモロコシ16.3%、大豆17.9%、落花生15.4%と、穀物ごとには差があるものの、全般的には急上昇中の模様です。

 穀物ではないが、豚肉は30.3%と上昇率は飛びぬけています。

 コメの場合、政府買い入れ価格は前年をやや下回ったにも拘わらず市場価格は上昇したことを見ると、政府にはこのような上昇気配は見えていなかったことになるのではないでしょうか。

 これら農畜産物の市場価格の上昇の背景には、南方の豪雨の停滞、新型コロナウイルスの影響(ベトナム、ミャンマーなどコメ生産国やカザフスタンなど小麦生産国の輸出禁止などの広がり)、中米経済戦争のあおり(大豆・豚肉)を受けた輸入量の減少や国内生産の落ち込み(豚肉は、輸入減少も響いている)など大きな原因が一度に起きていることがあります。

 今年の早稲作付面積が増えた理由として、前回は政府の見方をいくつか挙げました。

確かにこれらはその通りなのですが、実際は、政府が挙げたことすべてではありません。

 私は、政府は農業の今後に深刻な不安を抱き始めたのではないか、と見ています。耕地面積はほとんどの農産物で減少傾向にありますが、その背景には、農民の農業離れといっていい、農民の全般的な農業忌避現象が起きている可能性があることに、政府は漸く気づきつつあるのではないか、と思うのです。

 いま見たように、農産物価格は上昇しており、さぞかし農民も喜んでいることでしょう、

などと思ってはいけません。農民は肥料・農薬・機械作業費などを中心とする生産資材価格の上昇が止まず、他方、中間流通業者からは安い値段で買いたたかれ、手取りはほんとに少ないのです。農民にとって、コメ500グラムの値段は、水500グラムの値段より安いといわれるような事態は完全には消えていません。

 私は日本評論社から、10月に、『中国土地私有化論の研究』と題する著書を上梓します。とても厚くなり、420ページにもなってしまいました。

 

私にとって、一人で書いたこれほど厚い本を出すのは人生初めてのことで、同時に最後のことになるでしょう。実は、これでも文字数は抑えたつもりなのです。以前、出版社で編集作業をして定年で辞めた家人は、人の苦労と気持ちを微塵も理解する様子も見せず「そんなに厚い本、だれも読まないよ」と揶揄していますが、厚くなったものは仕方ありません。日本評論社の編集ご担当者は、実に仔細に見て下さり、文字、言い回し、事実確認、章構成、表紙デザイン、あらゆることに親身に対応して下さいました。

 本のタイトルの通り、この本は、中国農民と土地の関係に焦点を当て、徐々に進むその距離の広がりに歯止めをかけることを念頭に、「コモンズの悲劇(共有地の悲劇)」(ハーディン)を横目でみながら、“土地を農民の手に“をモチーフにした中国土地制度改革論のような性格を与えたものです。

 私の目からみると、中国革命は農地を農民の手に渡すことが大義名分であり、農民が望んだことでことでもあり、それゆえの革命の成功でした。ところが、数年後、その期待は裏切られ、農民の農地は手から離れていったのでした。今日まで、農地は農民の手からますます離れてしまっています。

 化学肥料と強い農薬で土は衰え、本来の生命力を徐々に失い、植物工場の培地、ロック―ルのように固く無味乾燥なものに変わった農地も増えています。この状態はいかにしたら解決できるのでしょうか?

 おまけに、pHが7~8というアルカリ性土壌が多く、もともと易しい農業ではありません。自分の手から離れていく農地、耕作が難しい農地、食料の安定的な確保のためには、土地制度はどうあるべきなのでしょうか?

2020/09/03

中国コメの作柄は不良(早稲・一期米)、習近平の「食べ残し止めよう」発言とリンク

 8月中旬、国家統計局の農村司の李司長が記者会見で述べた内容は、近年にない暗いものでした。

 早稲(わせ)の全国作付面積は475万ヘクタール、日本の水田・畑・果樹園を合わせた耕地面積をはるかに上回る面積です。しかも去年より、約30万ヘクタールも増えました。

 増えた理由として、農民の作付意欲、早稲地帯の地方政府の作付奨励、各種補助金、最低買い入れ価格制度、農民の組織的な生産資材調達の成果、荒れた水田の復活耕作、大型機械や無人田植え機の普及、土地託管制度(銷供合作社等への経営委託)の普及、稲作経営の規模拡大、春先の気温上昇と適度の降水量など、稲作のための好条件がそろったためである点を強調されました。


 ここにはありませんが、別の理由もあるはずです。この点は次回、触れることにしましょう。

 では収穫量はどうだったのでしょうか?収穫量は2,729万トンでした。去年より103万トン増えています。作付面積が30万ヘクタール増えたのですから、収穫量が増えるのは当然なことです。

 しかし問題は、ここから先にあります。実は、10アール当たり収穫量は574.4キログラムでしたが、これは去年より約16キログラム(2.7%)も少ない量なのです。

 早稲の作付をしている主な省は湖南省、江西省、広西自治区、広東省、安徽省、湖北省などですが、春先の天候が6月以降になると一変します。前回書きましたように、長雨と低温をもたらした「魔物前線」が8月に入っても、中国の早稲作地帯に停滞したまま動かなかったことが最大の理由といいます。

 いかに反収が減ったかという点は、今年新たに増加した作付面積約30万ヘクタールが増やした収穫量は103万トンですから、10アール当たり、わずか342キログラムに過ぎなかった点に顕著に表れています。

 では、早稲の後作に田植えをする晩稲(二期米)の作柄予想はどうかを中国農業農村部が随時発表する情報を束ねて判断すると、田植えの時期が平年に比べ、少なくとも1週間ほど遅れているようなのです。その理由も長雨による早稲の収穫時期の遅れ、長雨のために代掻きなどが遅れた水田の修復、その後の天候不良が影響していると見てよいでしょう。

 晩稲の作柄がどうなるのか、今の段階では見通せません。

 8月11日のことです。習近平がいきなり「食べ残し」「作りすぎ」批判発言を行い、世間をびっくりさせた記憶は新しいと思います。「食べ残し」「作りすぎ」は中国の食文化といってもいいくらい日常的なことで、中国の食とフトコロが豊かになった象徴的な日常でもあります。私はテーブルの隙間が消えるほど料理の皿が並び、食べ残した料理を現場で見るたびにもったいないと思ったものですが、食文化の一部あるいは食習慣だと言われれば納得するしかありません。

 それを習近平がたぶん自己批判も含め、批判したのですから、ただごとではありません。

 背景はなんでしょうか?しらぬまに潜行していた食料不足問題がある、というのが私の見方です。10月に、私は一冊の本を上梓しますが、そこで、自分でも詳し過ぎるほど、詳しく書きました。次回はその本の概要を紹介いたしましょう。

 

2020/07/25

降り止まぬ中国の雨と食料不安



http://www.cma.gov.cn/2011xwzx/2011xqxxw/2011xzytq/202007/t20200725_559242.html



この図は中国気象局が7月25日午前8時44分に発表した26日午前8時~27日午前8時までの24時間の降雨予報図である。最も激しい降雨が予想される地帯は長江と淮河(黄河と長江のほぼ真ん中を流れる中国第三の大河)流域を中心に、ほぼ中国南部全域におよぶ広範囲である。この中に日本列島が2つか3つ、すっぽりと入るほどの広さだ。

これまで、両河川だけでなく黄河を含む多くの河川が危険水域を超え、一部では堤防の人工決壊や自然決壊が起き洪水が発生、三峡ダムは危険水域の170メートル強まで10メートルもないほどの高さに達したという。

 この降雨をもたらしているのは日本の梅雨前線まで一本につながる降雨前線で、これを航空母艦とすると、そのまわりに、いくつもの低気圧が護衛艦のように配置され、さながら大海原をゆく大打撃軍のように大雨を降らす魔物前線に姿を変えて居座っている。中国の降雨帯と日本の降雨帯は前線上でつながっており、この点で、両国は大雨による運命共同体を作ってしまっている。この雨は降雨量の強弱を伴いながらも2ヶ月以上降り続き、この先も予断を許さない。

私は農業気象に興味があることもあり、毎日、かならず一度はどこかのチャンネルのテレビで「気象情報」を聞き、ネットで天気図(気圧配置図)と気象衛星の写真を観ることが習慣になっている。天気図ではある程度の予見は可能であるが、それだけでは大きな限界がある。一方、管見ではあるが、ほんとに知りたいテレビの気象情報は、最近、ほとんど当たらないのが常であるような気がする。気象専門家の名誉のためにも言っておくが、明日は晴れだ・あるいは雨だ、とだれしも思うような天気は当たる。これを加えると、気象専門家の予報的中率はたぶん半分以上となるのではないか、と思う。テレビ出演される気象予報士はとりわけ優秀なのだろうが、「長かった今年の梅雨も〇〇日ころには明けそうです」ということばを、今年は何度聞いたか判らないほど頻繁に耳にした記憶があるが、少なくとも、これまでその通りに当たった試しはない。

かく言っても、べつに気象予報士や気象庁を批判することが今日の目的ではなく、それだけ、今年の天気は地球レベルで大異常だ、ということを言いたいのである。しかし、異常だと片付けてしまっていいのか、かなりの疑問もなくはない。それどころか、これまでの異常が今後の常態または「平年」になる転換点を、地球は迎えているのではないか、とさえ思える事態が地球のホウボウで起きている。

このような事態を迎え、私がもっとも心配する点は、食料確保が大丈夫かどうかという点である。豪雨が襲う中国南部はコメの大産地であり、野菜も豊富に採れるところである。

中国政府は、7月25日時点では、水稲の被災面積と減収量を公表していない。夏小麦については産地がほとんど被災していないこともあり、農業農村部は7月中旬の予想では増収とした。コメについては、なお被災が止まないことから、しばらくは収穫予想を出すことは不可能であろう。すでにコメは輸入依存が強まっていることから、減収となれば今年のコメ価格への影響も予想される。日本産のコメがどうなるか、こちらも不安材料である。