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2026/02/13

過大評価だった?中国土地革命


 (写真:中国内陸のある村の光景。高橋撮影)

中国の最大の課題は土地制度、実際の土地利用、土地権利の諸矛盾などの諸問題をどう解決するか、というものだ。

 

技術、自然資源、交通に問題はなく、教育、市場機能、暮らし等々もどちらかといえば平穏だ。ただし経済成長はほぼ終焉するステージにあるので、これからは、日本やアメリカと同じように、富の分配をめぐる対立(よくいわれる「分断」は、それが表面化したものだろう)が起こる可能性は否定できないだろう。

 おそらく、中国は冒頭で示した課題を置き去りにしたまま、経済成長がほぼ終焉するステージに入り込むのではなかろうか。

 とすれば、土地問題の解決はさらに遠のき、農民の普遍的であるはずの権利も空のかなたへ消えゆくかもしれない。

 そこでだが、これまでの土地の歴史は、おおむね次のようなものだった。

 はるかむかしの西周(紀元前11世紀頃)から、今日までの約3000年の中国史を「土地レジーム」というキーワードでふりかえると、王朝(支配者の象徴)と農民(被支配者の象徴)の対立の歴史だった一面が見えてくる。

 対立は、ときに農民反乱、生活苦からの逃散(むらから逃げ出すこと)や盗賊化を生み出した。逃げた者は、土地が欲しかったわけではない。逆だ。土地から逃げたかった、農民の立場から逃げたかったのである。

 時代が下ったあと、宋代、元代、明代、清代、民国期以後においても、農民が王朝や大土地所有者からの苛斂誅求(むごく厳しく、非道に取り立てること)に合って来たことに変わりはない。

 それを変えようと、孫文、次いで毛沢東がいわゆる土地革命に乗り出した。孫文は「平均地権」(土地所有の平均化)、「耕者有其田」(耕作者が土地を持つ)などの斬新な改革案を打ち出した。しかし孫文は、農民問題の解決に本気ではなかった。

 一方の毛沢東は、というと、真剣だった。

地租軽減、地主制度の解消、土地分配策などの土地革命を打ち出し、農民の歓心策を展開した。

そして毛沢東は土地革命を急いだ、急ぎ過ぎたので、さまざまな非道もあった。この頃、毛沢東ひとりの意向が国のなりゆきを左右した。

 貧しく、正直な農民たちは、「私の味方になれば、あなた達には土地をやる」という毛沢東のことばを額面どおりに信じて、大多数が反国民党戦線と抗日戦線に、命をかけて積極的に参加した。

 1949年の中国革命が画期的だったことは、間違いないなかろう。一度は農民に土地に与え、私有化を認めもした。農民は歓喜の渦に包まれ、方々で、毛沢東と土地革命の成功を祝う農民歌が生まれ、老若男女の農民の歌声が村々で響き渡ったという。

 ところが農民にとっては信じられないことに、すぐあとで官製の合作社、そして人民公社に、ほとんどの土地や農具、そして労働力までもが、供出を強制されることになった。歯車が逆回転したように。

 農民は「なにごとか?」・・・・と、悲愴と迷いで混乱したことだろう。

 

少し時間をおいて、人民公社の失敗が明らかになり、農地は農家のかなり自由な耕作裁量が広がり、時代はいまに至った。

 しかし農民に、自分の農地はない。農民集体という実体のないところの農地を耕作するようになったが、農民が零細な農耕をすることに、なにも変わりはない。

 実体のない農民集体から農民が農地を借りることを中国政府は「請負い」と表現しているが、経済学的には農地貸借、あるいは農作業請負(職業分類上は「サービス業」)である。

 農業所得は農家所得の三割強程度、生活費の大部分を出稼ぎなど、いまも、農外就労に依存しなければ生活は成り立たない。

 荒っぽいいい方だけど、最近、1949年の中国革命を過大に評価し、それまでの王朝時代と比較して、農民問題や土地問題が、質的に、大々的に、途方もなく、画期的に改善された、と思い込んでいただけかもしれない、という疑問が筆者の脳裏をかすめるようになった。

 もしかして、革命を評価し過ぎて、見るべきことをどこかに追いやってしまっていたのではないか、と思うこの頃である・・・・・・。