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2024/03/19

中国農民の顔の表情

中国へ行きたい最も大きな理由は、むらむらのあぜ道や広い見晴らしの真っ平らな畑の側の道端をあるきたいがためである。

何があるわけでもないし、特別の違いがあるわけでもない。新潟のコメ作地帯の集落で生まれた身にとって、どこであっても、農村の光景は何処と無しに、故郷の香がする。

中国の農村はなお発展途上にあることも事実である。筆者の眼から、日本の農村との最大の違いは、区画整理が済んでいない田んぼがなお目立つこと、用排水路が未整備なこと、灌漑施設が不十分なためか、排水が十分でないことなどは、改善の余地があると映る。

都市近郊、たとえば河北省の都市近郊には中型のトラクターに乗った農民の姿を多く見かけるが、たとえば江西省の水田は区画整理が遅れ、しかも専業農家が限られるせいか、トラクターで作業中の農民を見かける機会も限られた。農業は日本の委託経営のようにひと任せだ。

しかし、どこの農民も、よく似た環境にあることを痛感する。素朴な顔をしていることも共通する気がする。土着的な風情が漂う。だから好きだ。

都市住民は、やはりどこの国だろうと似ている。顔は青白く、無症状で、どことなくカリカリしている風情だ。心の底に、一人ひとりがだれかの、何かの、代表のような自分を探しているからだろうか・・・・・・。

その点、何をも代表しない自分がそのまま顔に出ている素直さが農民にはある。







2021/05/17

農民の思想の自由とウソ

 なにやら不穏当なニュースが飛び込んできました。

教育・研究の枠組みや内容を国家が規制するのだそうです。そんなことできますか?

現代の世の中をナメテマセンカ?

できないはずですが、やってしまうところに、言いようのない怖さがあります。そして、それにしたがって先頭をきっていく学者が、優秀な等級を手にするのが現実なのですね。


華の国(かのくに)の学者の多くは、知る限りですが優秀です。優秀だけにとどまっていればいいのですが、お利口でもあるのです。どなたか、ガリレオ・ガリレイのような、不器用だけども自説を曲げず生きている華の国の人ご存じありませんか?


ともあれ、心配になることが一つあります。

農民の思想の自由です。農民は、理由あってのことなのですが、もの知らずぶります、都会人がもっている農民イメージどおりに振舞います。

そうすることが、だれからも目を付けられず恨まれず、静かに生きる術だったからです。農民にだって、韜光養晦くらいできるのです。だれかの専売特許ではありません。この点、時に、農民もウソつきになります。

もっと大事なことですが、農民の技能の発達や貧しさの中で最大の幸せを得ようと努力する暮らしに、思想の自由はかかせない。


農民と話してごらんなさい、豊かに実の詰まった、たくさんの面白い話をしてくれますから。なぜかというと、そうした知識や経験がないと、土を耕して、種を植え、農産物の栽培をすることなど、とてもできるものではないからです。

工業の現場は規制とか基準とか杓子定規のことだらけでしょうが、田野の仕事はいっときも休まずダイナミックに変化する自然相手ですから、常にそれらと対話することなしには、仕事が進まない仕組みになっているのです。

思想とは客体と、ときには自分との対話を保障する仕掛けです。農民同士の対話はどんな内容であっても規制してならない、と思います。

当の規制をかけようとするお上の先生に当たる人は、思想とは人間の意識からではなく実社会の物質的なんとか関係から生まれるといったようなことをいった記憶があります(くどくてすいません)。農民は、そのとおりに生きているのです。

ならば、先生のいうことを聞いて、現場の声や思想は、お上の意識によって変えられるようなものではないはずだ、と思っていただきたいものです。


本来、思想に政治思想も社会思想も農業・農民思想もありません。思索の自由、対話の自由が思想の自由そのものだと思うのです。