中国に行った際に普通の農民と接しているときに感じることだが、自分たちが政治制度上は社会主義といわれる国に住んでいることをどれくらい自覚し、本来の社会主義なるものをどれくらい理解しているのかとなると、ほとんど乏しい。ほとんどの農民にとり、中国の社会主義制度は、実はあまり重要なものではなくなってきているのではあるまいか。
尋ねると、きまって返ってくる「政府・党のおかげで生活もよくなった」という言葉は、まったく「オウム返し」そのもので、「外人に訊かれたらそう答えておくだけでよい」と教育されているかのようだ。
筆者はまだチベット、新疆、海南省、広西、貴州省には行ったことがないので、解ったようなあまり大きなことはいえないが、少なくとも、残りの26か27の省・直轄市・自治区の農村で、農民に会った経験からすると、中国の農民は中国の都会人や富裕者層のひとたちが考えるほど無能でもなければモノ知らずでもない。
むしろ、生き方を心得た人間としても、農業人としても優秀な方であると思う。若い頃、中国以外の国、アメリカ、豪州、東南アジア、東西の欧州諸国や日本全国すべての都道府県の農村調査をした経験からいうと、この点は、どこもほぼ同じである。
生き方を心得ていると思うことは、となり近所との付き合い方、けっして豊かとはいえない生活水準のもとで、生きる喜びを最大にする術を知っているということだ。
農業人としても優秀、という点は、農業に素人な筆者や都会人ではとうてい知り得ないしできないことを身に付けており、それを理解し、日々、技術や技能を発見し更新し、それを全身に上書きする能力の持ち主なのである。
彼らが身に付けている農業技術や技能は、地主や貴族あるいは王族が農民に教え伝えてきたものではない。彼らは、何も知らないのだから教えようもない。みな、あるものは仲間から、あるものは自分の経験と努力からうまれ、改良してきたものだ。
とくに近代になると、食料調達や分配の社会的安定が支配者にとっても不可欠になり、農業専門の技術研究、教育研修施設などが生まれてくるが、その受け皿たる農民に能力と自覚がなければ無意味なことである。
中国農民の場合、何千年もの長い期間、農地を自分の所有物としたことがない。いまもそうである。いまではその正当化が、「科学的」というもっともらしい言説でもって、端的に言えば、社会主義なのだから当然だという、非常にざっくりの「思想」が根拠におかれている。
では社会主義とは何かとなるが、生産手段の私的所有制度の廃止とその中央計画的運用、したがって搾取がない(公平な分配と同じことであるが階級制の止揚)、資源の適正配分、効率、公平な社会参加、自由、民主などがその要諦のはずである。言葉の使い方は教条主義的な論者とは異なるが、中身はそういうことである。
では、実態はどうであろうか?
農業部門に限定して、いまの中国に照らして確認すると、そこには優れた点と問題点とが併存している。
1、優れた点
(1)上述した農民自身の努力以外に、品種、基盤整備、栽培・飼養、収穫、保管などの新農業技術開発と普及に、資金、頭脳の国家的集中投資が行われ、多くの国際特許権を獲得しているほどだ。
(2)灌漑整備や土地利用の大規模化が、国家もしくは地方政府主導により一気に可能。典型的には「基地」と呼ばれる大規模農業団地やビニールハウス農場が各地に誕生した。
その結果、農業参入を行う農外企業が増え、しかも数百、数千ヘクタールの農業経営企業を輩出した。
(3)政府主導による改良品種の全国的普及、栽培・飼養技術の統一、政府買入価格の設定による農産物市場価格形成制度の一元化が可能になった。
(4)農産物物流を担う車両の高速道路料金の無料化や軽減など、食料の統一的確保政策。この点は、新型コロナによる農産物物流の滞りや停止に対する強制的な排除やグリーンロードといわれる道路の迅速な確保にも応用された。
2、問題点
(1)現在の農地所有は制度的には(集体)集団経済所有制で、定義的には、農民の農地はそこからの借地である。
農地の所有制度なぜこうした制度になっているか、といえば土地は憲法で全人民所有制(公有、国有)とされているからで、なぜそうしたのかといえば、社会主義制度の国だからと、卵と鶏の順番争いのようになる。
社会主義の指導者であり実権掌握者は党だから、実際は、農地を含む中国のすべての土地は見方を変えれば「党有」とも呼べる。つまり農民は、党から借地をしているともいえる。
土地所有制度の呼び方はともかく、制度的には公有がよい、と考えた結果、いまのような制度になったわけであるが、人民公社時代に比べれば、いまの家庭請負生産制になって、確かに農業生産力は上がった。農民個々が、自由に農業ができるようになったためで、もし、農地所有が自分のものになれば、さらに意欲と工夫と努力が実り、生産力はこれまでにも増して高まることを示唆する。
この意味するところは、農民には自由のない、ただ集団農場というだけの農地公有制―新中国ではその典型が人民公社だった―の優位性は一度も実証されたことがなく、むしろ否定されたということである。
(2)家庭請負責任制という農地制度には、新たに登場してきた地方ボスが、農民から農地を奪い、身勝手な農地の使い方を許す問題を全国規模で起こしているという。形式的には請負農地の権利が別の農民や企業に移転していく過程で起きている問題だが、形式的土地取引の背後に隠れて実態は見えにくい。
(3)大部分の農民は生活に苦しく、跡継ぎもいない。だから農地を売却したいが、自分が使っている農地には所有権がないのでそれができない。一方、大規模化を進めたい農民は資金の準備はできても、近在の農地が複雑な権利移動関係にあるのが普通で、農地を団地式に集めることができないし、集めた農地はすべて借地のままである。
(4)農民が集団経済から借りている農地面積は狭く、単純平均で一農家当たり65アール。これでは一家を養うことは到底できない。さりとて豊富で労働条件に恵まれた兼業機会がそうあるわけではなく中途半端だ。そういう意味では、農地は生活を補っている。だからといって、農地制度がこのままでいいとはいえない。
(5)借地でも安定した経営ができればまだいい。実態は、農地は公有であるという理由から、公共の利益という名目のもと、しばしば強制収用に遭う。しかも補償制度は弱く、補償は農民または農業企業ではなく、農地所有者すなわち集団経済に支払われる仕組みだ。農民はそこから、一定の補償金を受け取るのだが、農産物販売代金の3年間程度を受け取る程度である。まれに、収用された農地に建ったマンションの一室など物的補償を得る場合もあるようだが、農民には習慣がなく住めない。だから売却してしまうが、そのお金はなかなか身に付かないように聞く。
(6)農民と農地を農村に縛るための戸籍制度(1958年)は農民を一般勤労者から切り離し、製造業やサービス業に正規に、つまり都会生まれの人と同じように従事することを許さない。許しても待遇や社会保障制度では差別を受ける。農地使用権(借地権)は農民でないと持てないので、逆に都市戸籍者には差別になる。
以上、現在の農地制度の持つ優劣を事例的・断片的に紹介したが、劣位の部分をいかに是正していくのか?
中国では、農地の所有制度について、批判を受けながらも私有化論が根強く存在する。もちろん農地の私有化だけで問題は片付かない。筆者の近著『中国土地私有化論の研究』でも、この点を論じている。これには、さまざまな反響といおうか批判といおうか、激励といおうか、さまざまなご意見やコメントをいただいているが、まことにありがたいことである。
ところでいま、筆者が考えているのは<社会主義所有制相対性論>とでも命名しようかという研究課題である。ひとことで紹介すると、中国に関する限り、いまこの国は社会主義制度あるいは共産党支配の状態にあるのだが、それと所有制度は相対的であり、実質的には両者は無関係でよいのではないか、という見方である。
現に、本来は社会主義と対立・矛盾するはずの市場経済は発展し息づいており中国発展の柱となっている。五カ年計画や毎年の中央一号文件は存在するが、そこにマルクス・レーニン主義に本来的な中央計画経済は存在しないといえるほど微弱だ。
また、所有に関しても企業そのもの、個人の株式や預金など金融資産、マンションなどの不動産の一部、高級車など物的資産、企業や農民の建物や製造・生産設備、牛や豚など動産の私有化が進み、経済活動の根幹を支えている。資産の大衆所有化は徐々に進んでいる。
これら私有資産の隊列に土地が加わったところで、中国の体制に影響するところはまずないであろう。つまり政治の社会主義や共産党一党支配という実務的制度と所有制度は相対的なものであり、分離してよいと思うのである。社会主義イコール土地公有というのは、観念論に過ぎないともいえる。社会主義の国にも私有制度は成立しうる。
見方を変えれば、中国の現在の体制はそれほどまでに柔軟で、我々が頭の中で想定してきた正統的な硬い社会主義などではなく、「中国の社会制度」である。これを「中国の特色ある社会主義」と呼ぶのも、もちろん自由である。